2016年3月31日木曜日

再開!本を出したこと、自爆テロ。

やっと本をだした!でも、もう2ヶ月近く前になる。『日仏「美術全集」史ー美術(史)啓蒙の200年』(三元社)という500ページを超える厚いものとなった。(http://www.sangensha.co.jp)いわゆる研究書(イヤな言葉)。長くやっていたので疲れた。評判?いまのところほとんどないけど、書きたいことを書いたので気にはしてないし、学んだことが山ほどあったので満足している。自分で言うのもなんだが、これまで顧みられなかった「美術全集」という書籍の歴史を初めて検証したということではかなり価値があると思っているのだが。ただ、「初めて」というのが曲者で、つまり、これまでの知識の積み重ねがない領域は研究している人も少なく、読者層がすごく薄いということになる。ただ、「美術全集」という名前だけは広く流通している、そのあたりで手にとってくれるといいのだが。税込みで6000円ちょっと値段が高いので、このブログを読んだ人が図書館にリクエストしてくれるとうれしいですね。図書館には資料としても必要だと思っているので。
この本の仕事と大学の仕事で、ブログをだいぶ休んでしまった。半年以上!!!本が出たらゆっくりできるかと思ったら、全集のデータをWEBにあげるのに時間がかかり、結局、「楽になるかな」と思ったのが2月の後半。でも例年の恒例行事の学生とのパリ研修。その後の大学の仕事。春休みはほとんどなかった。いやはや、慌ただしい。この半年の間にも面白いことや楽しいことがいくつもあったのに、記憶が薄らいでしまった。ひとつくらいは思い出そうと、スマホの予定表を戻していくが、会議ばっかり。予定表にはフットボールのことは記録してないし、テレビドラマの感想も入っていない。去年スマホに変えてから予定表が日程表という無機質なものになってしまった。それまではシステム手帳に挟むBindex Diaryというメモもできる予定表を使っていて、細々したことも書き込んでいた。「東京ラブストーリー再発見」とか「アーセナルの試合のこととか」「映画の感想とか」ね。手書きの予定表は、こんなことをさせたくするのだ。それがまた、記憶にもなる。スマホの予定表はこうしたことがしにくい。そろそろ変えようかと思っている。
さて、研修のパリ。これも少し記憶が薄くなってきた。去年のパリの夏はダニに噛まれてさんざんだった。面白かったのでブログで書こうかと思ったのに中途半端になって中止。その後遺症(蕁麻疹体質になってしまった)はいまだ少し続いているのだが、そのパリに学生の研修で1週間。去年のテロのために少しキャンセルが出て20人余りの参加となった。そういえば、テロのことでも書きたいことはあったのだ。襲撃された地区はすごく馴染みがあり、最初の襲撃先のカンボジア料理屋は何度か通った店でもあったし、行ったことある場所ばかりだった。テロのリアリティーはぼくにとってかなりのものだった。
テロについて何か書こうは思わないが、フランスではいろいろな国際政治情勢とからんでテロが続いてきたし、ぼくの記憶ではアルジェリア独立戦争のときもかなりあったと思う。そして、少し前のブリュッセル。そういえば、息子とのスペイン旅行のときにマドリッドの3駅での同時爆破テロに遭遇したことも思い出す。テロはいまや世界を覆っているが、そのテロ手法が「自爆」であることに注目したい。「注目したい」なんてのんきなことを言っている場合ではないが、「自爆」を想像するだけで震えてしまうのだ。どうしてこうなのか?きちっと分析しているものを読んだことはないが、ネットでイスラエルの女性が女性と子どものテロリストのインタビューを含んだ研究書を見つけた(Anat Berko, The Smarter Bomb Women and Children as Suicide Bombers, Littlefield Publishers, 2012)。読んでみたい本だ。
ぼくが一番嫌いなのは暴力なのだが、それを自分と他人に向け、それも爆弾でという状況は身震いさせる。それをいとも日常的にやってしまう自爆テロとは、想像力がまったく追いつかない。どうしたらそうしたことになるのか。テロリストとなった人を想像してみる。組織での上からの命令はあるだろう。そうでなければ自分で爆死しようとは思わないのではないか。でも、当人をそのような気持ちにさせてしまうものは何なのかがわからない。思想と言われるものなのか?ある思想(政治的でも宗教的でも)に染まった人(あるいは共同体)が、ある状況のなかで、自分と他人を巻き込み自爆死に至る。自己犠牲の最高度のナルシズムといった精神分析学的分析をしてみたって始まらない。自爆テロは多くの他人を巻き込むからだ。
ただ、自爆テロが「カミカゼ」という日本語としてもよく使われることは意識しておきたい。欧米のメディアには、それが起こると「KAMIKAZE」という言葉が見出しに踊る。日本人は違和感を覚える人が多いというが、あの太平洋戦争末期の自爆特攻が、自爆テロのひとつの起源であることは頭に入れておいたほうがいいかと思う。世界の多くのウィキの「自爆テロ」項のトップ映像が1945年の空母バンカー・ヒルへの特攻の写真である。平和な日本の礎=犠牲者としての特攻隊(もちろん理解できるが)というだけではなく、恐ろしいテロ行為者として記憶する必要もあるだろう。うまく考えがまとまらないが、上に書いた本を読んで勉強してみたい。この自爆テロは21世紀に入って急速に増加してきているとの報告もある(英語版ウィキ)。自爆テロの世紀。何と恐ろしいことだろう。ちなみに、英語版ウィキは、「自爆テロ」に関してかなり充実している。興味ある方はどうぞ。
桜の季節、テロの話になってしまったが、明日は入学式。大学勤めの人間には正月でもある。晩年なのに、なんでこんなに働くの?と思いもするが、これも幸せなことだと思うようにしている。ときどきブログも書いていこう。左はパリでの伝統カフェでの夕食のひとコマ。奥の絵(本物)はアール・デコの画家タマラ・ド・レンピッカ。伝統のカフェはすごい。

2015年9月4日金曜日

パリ、ヴェネチア 2015年夏


夏休みを利用して2年ぶりの夏のヨーロッパ、パリとヴェネチアだ。パリに着いて翌日ヴェネネチアに。旅行に出るとブログを書きたくなる。原稿の最終段階のためブログを書く気持ちが薄くなり、3ヶ月もほっておいた。でも、旅行をすると書きたくなってくる。時間もあるのだが。そんなわけで、仕事も一段落し、2年ぶりの夏のヨーロッパとなったのである。
ヴェネチアはビエンナーレ。我が塩田千春がどうなっているのかを見たいと思って来たのだが、いつものことで熱心に見るわけではない。暑くて疲れるのだ。でも、これまでと比べればけっこう時間はかけた。気に入ったのはアルメニアの展示。作品そのものというより、現代アートが本格的に歴史と絡み合う、その迫力に感動したのだ。まあ、アルメニアに思い入れがあるからかもしれないが。そのアルメニアは、大昔初めて海外に行ったときにトルコ側から見た雪のアララト山に感激し、あそこにアルメニアがあるんだと思った経験もあるし、アルメニア出身のアメリカ作家サローヤンの小説に惹かれたこともある。心のどこかにアルメニアがあったのだ。今回のヴェネチアでもう一度火がついた。
そのアルメニアの展示は、サン・ラザーロ島のアルメニア修道院で行われている。何度もヴェネチアに行っているのに、この島を知らなかった。サン・ラザーロはアルメニア教会の修道院があるだけの島だった。18世紀からの長い歴史もつアルメニア教会の大きなベースである。その歴史を書いた本も買ったので、細かな知識も得ることができたが、書けばきりがない。ともかく、島はアルメニアという土地と人間の長く深い記憶がぎっしり詰まった場だったのである。その修道院を使っての現代アート祭への参加。「ズルイ」と思う人もいるだろう。アートは歴史にかなわないからである。美術館でいくら歴史的作品を構築しようが、何世紀にもわたって民族の記憶とその実践を行ってきた場所にかなうはずはない。そこに現代のアルメニア出身のアーティストが加わる。当然スケールが大きくなる。修道院のブックショップのおばさんは、こうしたことは初めてで、おそらく最後のことになるかもしれない、と言っていた。唯一の出来事を見ることができたのだ。感激しないわけにはいかない。そこに展示した世界中のアルメニア系の作家たち(アルメニア人は一種の流浪の民でもある)もうれしかったのではないか。現代アート祭は、一方に商業主義をかかえながら、こうしたこともできるのだ。今夏、ヴェネチアに、というよりサン・ラザーロ島に行けて、ほんとによかった。そのあと、僕の好きな島サン・ジョルジョ・マッジョーレで、ティントレットの『最後の晩餐』を見て教会横のカフェでモレッティ(ビール)の小瓶。目の前に青い海。何とも言えませんでした。もちろん、この島にもビエンナーレの作品が展示されていたので見てみたが、やっぱり、テントレットとモレッティのコンビには負けてしまう。
今回のヴェネチアでは、もうひとつ新しいことに挑戦してみた。宿泊を隣町メストレにしたのだ。初めてのことである。格安のツアー旅行だと、ここに宿を取ることが多いらしいが、ヴェネチアのイメージは皆無。一般には何もない町となっているようだ。実は、そのことを狙ってメストレにしたのである。ぼくも少し前までは、メストレ〜って、馬鹿にしていたのだが、旅行術も老獪になってくるとこうしたところを選びたくなってもくる。それも今回は一人。連れがいたら泊まらないけど、ひとつの楽しみとして宿泊したのだった。だが、メストレ選択は成功。駅前の趣味の悪い近代建築群を列車から見てきて印象が悪かったのだが、町自体はそうではなかった。といっても観光と言えるものは皆無。海の方には工場地帯もあるようだが、駅のちょっと先からは普通の住宅街で、何の特色もなく、ヴェネチア観光のためのホテルだけが点在する町。だから観光客は少なくない。でも、こうした何もないところで、小さな何かを見つけるのが旅行の醍醐味である。そして、見つけたのだった。
レストランである。Santi Mestorini。キノコのサラダ、Tボーンステーキのカツレツとか、スパゲッティの一回り太めのパスタ等々、なかなかだった。「孤独なグルメ」のノリである。ヴェネチア本島を3日間、毎日2万歩以上歩いて疲れた身体をほっこりさせてくれた町がメストレだった。2度と行くことはないだろうが、旅行術体現者には小さな勲章である。
パリーヴェネチアは前にも使った格安のRyanair。今回は格安飛行を完全攻略。2年前の失敗から学び、格安が格安であることと実践できた。前回乗ったときとは違って、機内広告がなくなっていた。あまりにも商売商売で規制がかかったのか。乗務員も愛想がよくなっていた。もちろん、リクライニングはなく背筋を伸ばしての1時間半。この時間なら年寄りにも大丈夫。といっても、ヴェネチアだ!といったわくわくする気持ちにさせてくれない飛行機会社ではある。安いとはそういうことなのかもしれない。そろそろ、このあたりを卒業したいと思っているのだが、若いころの海外旅行トラウマ(?)を払拭できない。つい、格安へと目が行ってしまう。悲しいサガである。
そして、パリ。着いた日から2日間ほどは暑かったのに、突然、秋が訪れた。気持ちいい。といっても観光をするわけではないので、だらだらすることになる。パリでなくてもいいが、ある場所に滞在するときの最初のポイントは行きつけのカフェを見つけることだ。そのために最初、宿泊する地区のカフェ巡りをし、気に入ったところを探すのである。これが意外と難しい。パリのようにカフェが異様に多い大都市だとなおさらだ。最初に入ったときは感じよかったのに、次は、ギャルソンが代わっていて感じ悪いことも少なくない。もちろん、食べ物が美味しいかどうか。基準はサンドイッチかサラダの値段と味。ここがリーズナブルであるかが目安となる。そして込み具合。あんまり混んでいても落ち着かないし、少なくては不安になる。こうして、今回は借りたアパートから5分ほどの、現在人気の界隈と言われるシャロンヌ通り(バスティーユ寄り)のカフェ「画家のビストロ」(Le Bistrot du Peintre)に落ち着いた。どんなギャルソンでも感じがいいし、客層もいい。やはり感じのいいマダム(午前中から昼過ぎまでいるので経営者だと思う)のしつけのせいだろう。毎日ほぼ2回入った。店に入るときにギャルソンがボンジュールと声をかけられ握手を求められる。常連として街に馴染んでいる気分になる。
パリは少し知り合いがいるので、結局、一緒に夕飯を食べることが多くなる。フランス語のいい勉強でもある。その一人、ジミー(愛称)という画家の絵を見に行く。ぼくは基本的に絵画が好きなので、本当に絵を描いている人に憧れている。といっても、最近はほとんどいなくなってしまったが。そんな中でもジミーは本当の画家だ。「自然に倣う」(d'après nature)というフランス語があるが、それを律儀にやっている画家である。その「自然に倣う」ことのすごさが現代も生きていることがすごいのだ。絵画(油彩画)という西洋で生まれた西洋ローカルな表現が、いまだに力を持っていることを、ジミーの絵を見ていると感じる。アルゼンチンのリナレスもそうだった。絵画は依然として力を持ち、現代にも強いメッセージを持っていると感じる、ぼくにとっては稀な機会だ。ジミーの新作を見ることができただけで、今回、パリに来てよかった。
あとはだらだらとした生活が1週間ほど続いている。興味ある画廊はあるが夏休み。9月の中旬以降にならないと開かない。映画は、今、カンヌで賞をとった作品が上映中。一つしか見ていない。ジャック・オディアールの『ディーパン』。スリランカの内戦での反政府
組織からパリに逃れてきた元戦士と偽家族がフランスの底辺社会で生きる話。何故、パルム・ドールだったのかと騒がしかったが、悪くはなかった。日本ではこんな映画は撮れないだろう。そんなことで、短い夏休みももうすぐ終わり。

2015年6月4日木曜日

海街Diary、サイン、少しの本のこと

 ブログの更新を、と4月から5月の身辺雑記をたくさん書いたのだが、面白くなくて、書き直し。ブログは時間がかかる。といっても、記憶能力の後退もあり備忘録としてのブログも必要なので、ごく簡単に、この春の雑記を。
浦和、深谷、高知。今まで行ったことのない町に行ってきた。レッズの浦和。うなぎが名物と初めて知った。でも、有名なうなぎ屋は7時閉店!食べれなかった。そうしたら、テレビで埼玉の小川町もうなぎが名産だとか。埼玉とうなぎってまったく想像してなかったのでちょっとした驚き。調べなくては。ただ、うなぎと言えば浜松だよね。その隣町の磐田(家内の故郷です)にもおいしいうなぎ屋があったのに、久しぶりに行ったら消えていた。美味しいうなぎ屋が減っているように思う。浜松でさえうなぎは餃子に押されてる。B級グルメの時代なのか。ぼくもB級グルメ派だけど、もう一方に伝統派も健在でいてほしい。次の、「ふかやネギ」で知られる深谷は、駅舎が立派な町だが普通の田舎町。そうした町はサビレ感があるけど、妙なことに、深谷にはそれがなかった。普通の田舎町が、普通のままでいるのは難しいのに、深谷は立派というのか。そして高知。繁華街の飲み客の元気なこと。南国的ということ?そして初カツオ。美味しかったけどね・・・。あまりにもはまりすぎていて、感動!とまではいかなかった。
さて、さて、ここからは、「海街Diary」のこと。フランスの新聞「リベラシオン」のサイトでカンヌ映画祭の特集を連日やっているので見ていたら、「4人姉妹」という日本映画の監督出演者のレッドカーペット中継とインタビューライブをやっていた。そこではじめて原作が吉田秋生の『海街Diary』であることを知った。映画情報にまったく疎くなっている。これでは、人に「映画が好き」などとは言えなくなるな〜、と反省。それはともかく、ぼくは吉田秋生のマンガの大ファンである。だから、もちろん『海街Diary』は読んでいる。ここ数年マンガを読まなくなったが、吉田秋生は別。『海街Diary』も気に入っていた。それが映画化されたとは。
文学や映画には「青春もの」というジャンルがある。映画で思い出せばきりがない。ナタリー・ウッドの『草原の輝き』ジェーン・フォンダの『ひとりぼっちの青春』レスリー・キャロンの『ファニー』などなど、心に刻まれた青春ムービーである。小説も当然。でも、映画のことを考えていたら青春小説がなかなか頭に出てこない。『三四郎』のような成長啓蒙小説ではない小説。プルーストの『失われた時をもとめて』も青春小説と思ってはいるが。う〜〜ん。文学と映画はそうした膨大な青春ものを生み出してきた。ある意味、文学や映画は青春という言葉を造り出すものだとも言える。もちろん音楽も。とくにポップスは全編、これ青春ものとは思うけど、何かパターン化しすぎていて・・・。水戸黄門のようにはまってはしまうが。そして、マンガ。もちろん、ここも「青春もの」にあふれている。でも、そうしたマンガの「青春もの」と吉田秋生はまったく違っているのだ。『夢見る頃をすぎても』『河よりも長くゆるやかに』が最高峰だが、マンガという表現ジャンルにしかできない、というより、マンガこそが青春を語りえる、そんなことを教えてくれたのだった。それは青春のスカスカな空気感ー言葉を探しているのに見つからず、見つからないこと自体を自己目的化するために生まれる虚弱感とでも言っておこうかー、そんな空気を吉田秋生のペンは生みだすのだ。その吉田秋生先生から間接的にイラスト入りの色紙をいただいている(個人的に知らないが人を通じてもらったのだ)。ちょっと自慢しておこう。『海街Diary』のような4人姉妹のイラストが描かれたもの。家宝!ともかく、もうすぐ映画も上映されそうなので楽しみにしている。でも、綾瀬と広末がな〜。カンヌのオフィシャル・インタビューでの素人感はなんとかしてほしかった。
吉田秋生先生の色紙を久しぶりに取り出して見ていたら、昔から有名人のサインをもらうのが好きだったことを思い出した。最初は大学時代のアダモ。あの「サン・トワ・マミー」や「雪が降る」の。京都会館(この名前は少し前に消えてしまったが)のコンサート後の出演者出口で長い時間並んでもらったものだ。以降、量的には多くはないが、ブラジルのドゥンガ、「ゴルゴ」のさいとうたかおさん、伝説的なF1マンガ『F』の六田登さん(ここには酔っぱらったぼくの姿も描き入れてくれた)、そして、フランスBDの最高峰モエビュスさん、そういえば、三男と行った欧州サッカー旅行でも有名選手にサインをもらったetc。まあ、勤め先での役得というのもある。理由はわからないがサインというのは妙に心をそそる。まだ何人かもらいたい人がいる。歳を忘れて頑張ろう。
話は変わって、このところ、原稿のために読書をしてなかったことも思い出した。原稿を書いているのに本を読んでないって不思議だと思うでしょう?本を見ているのである。本は読むものだけでなく「手にとり見るものでもある」。ぼくは愛書家ではないが、このところやってきた研究?で、本の多様な魅力を知った。こうした導線からも、本を読むファイトもでてくるのだ。
この2週間ほどの面白かったものを2冊。何といっても「フレンチライブラリー」である。ひとつは、脱構築派の理論家ポール・ド・マンの『美学イデオロギー』。1970〜80年代のスター理論家だった。ぼくの敬愛した文学研究者がよく口にしていた批評家だ。要約するのは難しいが、ぼくが理解した、というよりも、そのように読んだと言うことなのだが(読書は基本的に誤読である)、「美的」ということはいかれたイデオロギーだということだ。そのイデオロギーとは、「あるがままのもの」を崩してしまうということ。たとえば、映画を見て何かしらの感動があったとする。そのことを言葉で、それも感覚的言葉を差し込みながら映画を理屈化(意味化)していくと、映画と感動は別のものにすり替わり、映画は「見た」ようなものでなくなってしまう。そうした経験は誰にでもある。「美的イデオロギー」というのは、この「感覚的表現を使って感動を理屈化(意味化)していく」ことなのだと、理解した。長い間、意味を、とくに「ほんとうの意味」を見つけようとすることがうっとうしくなっているという、ぼく自身の考えも反映している。意味をもとめずテクストの上で言葉とイメージが躍動することの感動。ド・マンの世代に教えられたはずなのに、いまや、再び「意味」というイデオロギーが闊歩している。そして、日本では、この意味はほとんど人生論的になる。哲学も文学も映画もマンガも。ただ、吉田秋生はそうしたイデオロギーから少し身を引いている。
もう1冊。銀閣寺の古本屋で買った浜野修という人の『酒・煙草・革命・接吻・賭博』(出版東京)という昭和27年のエッセイ。というより浜野という人の翻訳本。変なエピソードがいっぱい書いてある。すべてが表題に関わる話題である。人間の基本的欲望にまつわる「奇譚」である。不思議な本だがユーモアがあって笑える。こうしたわけのわからない本は昔あったような気もする。巻末には出版案内があり長田幹彦『幽霊インタビュー』とか洋画家東郷青児の『ロマンス・シート』など誘われるものもある。出版社のことは調べたがわからない。そう言えば、昔は奇譚、艶笑ものなどがかなりあったような気がする。「気がする」のは、ぼくが牧逸馬の「怪奇実話」シリーズの愛読者だったからかもしれない。
本名は長谷川海太郎だが、谷譲治、林不忘、牧逸馬の3つのペンネームでハチャメチャ旅行物、時代物、怪奇物を雑誌「新青年」を中心に書きまくった、明治後半から昭和の「大」大衆作家である。今では忘れられてきたが、ぼくには最高の作家である。『めりけんじゃっぷ商売往来』、『踊る地平線』、『浴槽の花嫁 世界怪奇実話1』などは傑作だった。文学的にも。もっとも知られたのは林不忘での『丹下左膳』。35歳の若さで亡くなってしまった。山田風太郎もこの系譜である。かなりのものは青空文庫で読むことができきます。一度、どうぞ。
と、いつものようにだらだらと書いてきたが、もう梅雨入りだとか。そうそう、写真にあげたのは、フランスから送ってもらったエリー・フォールという美術評論家の『美術史』の第1巻『古代美術』。1909年刊行。実は、この有名な初版が日本の大学図書館には入ってない。その昔、「美術史はフォール」と云われたぐらいの本なのに大学にないとはね。けっこう安かった。

2015年4月6日月曜日

ブログ・再・再開ーパリ、カメムシ、サッポロ一番塩ラーメン

やぁ〜っと原稿がいち段落した。長かった!!!去年の夏には終わると思って「再開」を宣言したのだが、暑い夏、旅行にも行かずパソコンに向かってネットで情報を追いながら原稿を書いたのだが終わらなかった。甘く見ていたのだ。ともかく、去夏から半年以上ものびてやっといち段落。と言っても、最初の計画からすれば4年以上は遅れてたのだが。まだ少しは残っている部分もあるが、気持ちは楽になった。やっとブログを書く気持ちが出てきたのである。春ということもあるかもしれない。といっても、長いこと休んでいたので何を書こうかと迷うのだが。ブログを書かなかったこの8ヶ月あまり、何をしていたのかと思い出そうとするけど、なかなか思い出せない。面白いことはいっぱいあったのに。
まずは、今年に入ってからの思い出すことをアトランダムに。
1月のパリでのシャルリー・エブドへのテロ。 フランスのネットを見まくった。意見はあるが書くのには時間がいる。そのパリへ2月末から1週間。学生の研修旅行。何と1年ぶりである。こんなに間を空けたことは今までなかったのだが、これも原稿のせい。自分の仕事だから仕方がないが、少し損をした気持ちになる。テロのことで不安がる学生もいたし、ぼくもいつもより少し不安だったので、ネットで危険情報をかなりチェックした。でも、行ってみたらパリはパリだった。普通のパリ。現実とはそんなものだろう。もちろん、危機に遭遇すれば、普通のパリではなくなる。これも当然だ。そうしたことは、大昔、1年近くのヨーロッパ、中近東、インド、ネパールの旅行で学んだ。その旅行でほんとに危険と感じたのは、ヨルダンの首都アンマンで、4人ほどの兵士に機関銃を突きつけられたときくらいだが。ホテルの2階から通りを写真で撮影したのが原因だった。フィルムを抜かれただけで解放されたが、第3次中東戦争後の政治・軍事的緊張のために厳重な警戒をしていたことをあとで知った。その昔より、はるかに(おそらく)危険は突然にやってくる状況になった。この突然の危機にどう対処するのか。情報をチェックするだけでは十分ではないし、外に出ないことでもない。危機に対処する個人の身体的技法が必要なはずだ。具体的にどうすればいいのかわからないが。
そのパリではよく歩いた。スマホに変えたので、一日の歩いた歩数を知らせてくれる。スマホは情報過多なところがうっとうしいが、これは悪くない。何と、2万3000歩も歩いた日があったのだ。腰も痛くならずに。そうそう、一度はと思っていた「農業博覧会」(サロン・ダグリクルチュール)に行くことができた。サロン大国(博覧会や品評会等々)のフランスでも1番規模の大きな博覧会だそうで、フランス農業の見本市。もちろん、ワイン、チーズ、ハム、肉などなど、試食品も少なくない。想像以上の規模で、ゆったり楽しむことができなかったが、農業と食べ物が「おフランス」な文化を支えていることは実感。一緒に行った学生たちも満足そうだった。
歳とともに、時差ボケがひどくなってくる。とくにヨーロッパから帰ってきたときがひどい。今回は、ほぼ1週間。4時間くらいしか寝れないので、1日に2回の4時間睡眠。3月は睡眠に悩まされそうと思っていたら、やっぱり。でも、意外なことがことが原因で。時差ボケが取れたある夜、寝床にカメムシが忍び込んだのだ。臭気のためにはきそうになったが、どこにいるかわからない。これもひとつの危機。翌日の昼頃起きたら(結構寝てしまったのだ、睡魔はカメムシに勝つ?)、身体はカメムシ臭。何と枕の下でまだ這っていた。寝れなかった憎しみを厚い紙に託し退治。着ているもの、シーツなどすべてを洗濯に出し身体も洗った。石鹸はアレッポ石鹸。でも、2日目にもカメムシ臭は取れない。カメムシ人間になるのではないかという不安が襲ったが、杞憂。3日目にはほとんど消えていた。ぼくは、ごきぶり、蜂、あぶ、蛾など虫類はまったく怖くないし、カメムシだって怖くはない。ただし、その臭いだけはね。誰もがそうだろうが。あれは何の臭いなのだろうかと、ウィキをチェックしたら「腹面にある臭腺からトランス-2-ヘキセナールなどを主成分とした[1]悪臭を分泌する。」とある。その上、1匹のカメムシが臭いを放つと、群れている他のカメムシは退散するというほどの臭いだという。なのに「カメムシ学者の中には、臭いでカメムシの種類をかぎ分ける者もいる。」なんて書いてある。毎日、臭いをかいでいるのだろうか。一度カメムシ学者に会ってみたくなる。危機と生きると危機ではなくなるのということである。ともかく、カメムシ学者を知っていたら紹介してください。
最後に、痕跡を消すということについて書いておこう。このところ、痕跡を消すことに関心が向かっている。痕跡を消すこと。現代ではどちらかと言えば支持されていない。やましいことは隠そうとする(犯罪者がその代表である)場合など、イメージは悪い。痕跡消去は、現在の文化では分が悪いのだ。時代は、といっても19世紀以降のことだが、痕跡は「私」の生きる証として重要なものとなってきた。でも、と考える。痕跡を消すことは、ほんとうにマイナスなのか。大昔の絵、たとえば、17世紀のオランダ絵画を見ていると、それが画家の塗り痕を隠す絵であることがわかる。筆で描いているのに、筆の筆触を隠したのだ。理屈はいろいろ考えられるが、それは別として、そのことが楽しかったに違いない。こんなことを考えていた矢先、ぼく自身が、痕跡を消すことの快楽を味わってしまったのである。
ジーンとくるような快楽は、ある深夜、サッポロ一番塩ラーメンをつくったときのことだった。実は、ぼくの基本的食事法は、朝と夜には炭水化物を摂らない、ローカーボダイエットの改編版。江部康二さんという医者(最近は本が売れて世間的にも知られてきた)の用語では「新縄文食」(関心ある人はネットで調べて下さい)。糖尿病のための食事法として始めたものである。その食事法を、かなり前からやっているのだ。病気をしたためだが、なので、深夜にインスタントとはいえ、ラーメンなど言語道断。自己規制もあるが、厳しい家内の目。といっても、普通には夜に炭水化物類(ごはん、麺類等々)をほしいと思うことはほとんどない。しかし、その夜は違った。テレビ番組のせいか?はたまた、数日前の昼のラーメンのうまさの記憶がよみがえったのか?、深夜に味わう美味しいワインのせいか?ともかく、インスタントラーメンが食べたくなったのである。
食料室には、昼食用のサッポロ一番塩ラーメンが。それほどの好みではないのだが、その深夜は猛烈に食べたくなったのだった。ただし、我が家の台所は、家内の寝る部屋の続きにある。もし、睡眠が浅い場合は、小さな音でも起きてしまい、ラーメンを深夜に食べたことがばれてしまう。こうなると、翌日が厄介である。インスタントラーメンのせいでもめるのは馬鹿らしいでしょう?そういうわけで、ラーメン作りは慎重に慎重を重ねることになった。つまり、作り、食べた痕跡を完全に消してしまうことが必要だからだ。そのために、まず水道水のの流れを最小限に、ガス着火の音を出さないように、そして、火の音も最小限に。鍋の水が湯になるのに結構時間がかかった。やっと湧いたお湯に麺を入れても火が小さいのでなかなか柔らかくならない、普通よる2倍の時間がかかった。もうひとつ、ラーメンには卵。ぼくの定番である。爪で卵を割り(音を出さないため)、鍋に落とす。葱は、これも小さく手でちぎる。こうして、無限とも言える時間が経ち、サッポロ一番塩ラーメンは出来上がった。部屋からは起きたようなシグナルはない。時間をかけたために柔らかくなりすぎた。でも、インスタントはグニャグニャな麺の方がインスタントの分にあっている。そして、居間に運びゆっくりと食べる。「うまかった〜!!!」抑圧の中でのラーメンがこんなに美味しいとは。しかし、片付けが待っている。卵の殻は生ゴミ箱の奥に隠し、少量の水で器と鍋を洗う。お湯を使うと給湯装置が音が出るからである。やっかいだったのは、鍋の底にこびりついてしまった卵。普通のスポンジでは取れないので、鉄タワシと爪で、ゆっくりと。もちろん、鍋、食器、箸は元の場所に。翌朝に臭いが残らないように台所の窓も開けた。こうして、深夜のサッポロ一番塩ラーメンとの一夜は、完全犯罪となったのだった。痕跡を消すことの快楽である。
こんな感じでブログの再・再開!最低、1ヶ月に1回は更新するつもりである。アクセスしてくれたごく少数の読者のみなさん、よろしく。つまらないこと、だらだらしていることが面白いということもある、そんなブログを目指して。

2014年7月23日水曜日

ブログ再開!W杯、建築学概論


ブラジルのW杯までに原稿を仕上げると書いて中断したこのブログFrench Libraryだが、結局、原稿は完成できず、W杯に突入。6月13日の開幕試合ブラジル・クロアチアから始まったW杯は、ドイツ優勝という、ぼくには悔しい結果で終わってしまった。アルゼンチン好きなのだ。そして、タイムラグの生活も1ヶ月が限度とも思った。LIVEで見たのが20試合弱か。あとは録画。楽しいが大変だった。大変なのは見るだけでなく、情報をチェックしたくなるからだ。日本での情報だけでなく、面白かったチームの情報を、当該の国のヤフーやグーグルでチェックしてしまうからだ。現在のコートジボワール、コスタリカ、コロンビアの現状とかもチェックしたくなり、パソコンの画面で見るはめになるからだ。おかげで、いくつかの国のヤフー的現実を知ることができた。
さて、このW杯ほど、紙一重ということの重さを感じたことはなかった。そのことが今回のW杯を面白くさせた。紙一重は、偶然的なものと、少し開きのあるものとがある。1次リーグから決勝トーナメント1回戦は白熱したゲームが多かったが、その多くは開きのある紙一重だった。実力が開いていても、紙一重になるのである。そこでは実力が下のチームが上に迫る、その迫力が面白くした試合も多かった。アルジェリアとドイツ、オランダとメキシコがそうした試合だった。下位のチームの気迫と体力。誰が見ても興奮する。そこでは戦術は一部にすぎず、別のファクターが支配する。そこで紙一重が起こる。フットボールが世界を熱狂させる原因のひとつは、ここにあると思う。そして、準々決勝になると、偶然の紙一重が白熱を生む。オランダとコスタリカは少し差があったが、あとは実力拮抗。ドイツ戦のフランスは、ヴァランの若さが出てしまった。もうひとつ頭を上にのばしたら、どっちに転んだかはわからない。コロンビアは、ファルカオがいたら準決勝までは来ていたとは思うが、このレベルになると、サッカーほど予測のつかないスポーツはない。その最大のものはブラジルの崩壊!唖然。諸行無常と言うか、物事が崩壊するというのは、こうしたことなんだと悟った僧侶(?)のようになるしかなかった。といって、ぼくはブラジルファンではないのだが。ダビド・ルイスの1点目のミスは、腕に主将の腕章を巻いたためか、もともとあった守備でのおっちょこちょいのためか。となるとミスではないのだが。そしてアルゼンチン。ディ・マリアの怪我が痛かったが、監督のミスも大きかった。不調のアグエロをどうして使ったのか、これが最大の疑問だ。それに対して、先発として起用されなくて、何かを溜めていたゲッツェを最後に送り出したレーウの心理学が優勝をもたらしたのだが、世界の評論家たちがドイツの戦略を、新しい方向だと誉め称え、アルゼンチンを守旧だといさめることには納得出来ない。フットボールの進化?こうした近代主義が大きな価値として存在しているようでは、フットボールは面白くなくなるだろう。このスポーツの面白いところは、多様性、そして、何度も書いたことだが(このブログで)、世界の残酷さを抱え込んでいるところだ。
数日前、朝日新聞に蓮實重彦が、今回はつまらないW杯だったと書いていた。これにも唖然!スポーツとしてのサッカーの美しさが台無しにされたと言っているのだが、蓮見の本を読んできた者として、サッカーにスポーツとしての美しさを求めるという、その発言をパロディーと思いたいのだが。仮に、美しいとしても、それは残酷さと表裏一体になっているからだと思っている。ともかく、蓮見重彦は、物事をもっと相対化出来る人かと思っていた。フットボールを美しさという言葉で語ること自体、美しくない。だから、ぼくはクライフも好きではない。日本にはそうした形式主義のスポーツモダニストがあふれている。そこから、スポーツに人生を過剰に重ねるつまらない記事や評論があふれてくるのである。そのことと、多くのスポーツファンが批判する民放のスポーツ芸能化とが表裏一体の現象であることに気づく人は少ない。
 W杯ともなると、いろんな人がいろんなことを「語る」のでいらつくことも多いが、そうしたことを白熱したゲームはどうでもいいことにする。何がベストゲームだったか1試合選べと言われれば、アルジェリアとドイツの試合だった。アルジェリアについて、それまでまったく情報がなかったのでびっくりしたことと、ボールを、受ける蹴る、走る、相手をチェックする、ゴールに向かう、という基本的なことに忠実だったことが印象的だった。日本とえらい違いだ。といって、日本の1次リーグ敗退にがっかりしているわけではない。あんなにつまらない試合をしたら当然。批判しない評論家、海外の情報を精確にキャッチしないメディア等々、大きく言えば、フットボール世界に世慣れしていないということにつきる。たとえば、岡田武史。かなり信用しているのだが、その前監督が、世界のサッカー関係者たちに会って話を聞くと全員日本の実力を高く評価していた、と、話していた。日本はもっと自信をもったほうがよい!などと言っている。「自分たちのサッカーをして優勝」という馬鹿げたフレーズと重なる。岡田という日本でも数少ない現実主義者が、ほんとうに「自分たちのサッカー」という麻薬に麻痺してしまったのも仕方がない。
W杯のことを書いていくときりがない。書くことにきりがないことは幸せなことだ。ただ、W杯中は頭がボーとして書けないのだが。ともかく終わった!そしてブログ再開!
ともかく、4年後のロシアW杯はかならず行く予定だ。大学も定年、久しぶりのロシア(というより前に行ったのがソ連の時代なので、始めてと言うべきか)、予算は4試合見るとして35万くらいで、貯金しなくては、あるいは、現在のウクライナ情勢がさらに進み、ロシアが無謀な帝国主義になったらどうしよう、などなど考え始めている。これも楽しい。日韓のときに札幌と大阪でしか見たことないので、ともかく海外でW杯を経験したいのである。理想はもちろん、イングランドに1年ほど住み、アーセナルかニューキャッスルを毎週追いかけることだが、当然、夢物語。Jリーグがそんな情熱をかきたてるようなリーグになり、京都サンガを追いかけるようになったらとは思うが、いつになることやら。
1ヶ月半以上ブログを中断している間、W杯以外にもいろいろあったのだが、どんなことがあったのかを、列挙しておく。ブログはぼくの備忘録ともなっているので、お許しを。システム手帳のスケジュール表を見ながら、W杯期間中も、いろいろあったんだなー、と、妙に感心。
もちろん、仕事はちゃんとしたと思う。授業と会議。学部の世話役なので面倒なものもあるが致し方ない。ただ、試合のビデオ見には神経を使う。試合結果を知らないように、つまりW杯情報を半日以上遮断しなくてはならないからだ。今回は大成功。これまでのW杯では、家にたどり着く前に、結果を知ってしまった(知らされてしまった)こともあって、情報遮断法を学習したのだ。
そんな日々、健康診断の結果が出て、この1年で中性脂肪がかなり増えていることがわかった。夜中のツマミと甘いものを食べないと決心。ただし、朝方のいくつかの試合では、ついツマミでビールを飲んでしまった。フットボールとビールは、ほんとうにぴったりの組み合わせなのだが、朝方にビールは合わないこともわかった。それから歯が悪くなって行きつけの歯科医へ。奥歯はそろそろダメです、歯垢を取りましょうと、W杯期間中、3回歯医者へ。ぼくは医者には忠実で、その上、病院が嫌いではない。これまで何度か入院したが、まあ、症状が軽いということもあって、楽しい入院生活だったからだ。病院という閉じた空間の「さかさま的世界」、つまり現実とは逆の意識が働くという意味だが、それが楽しいのである。まだ、病気に傍観的。これがもっと年取ったら、深刻なものだったらそうはいかないだろうが、そうなるときがあっても、楽しくしてみようとは思っているのだが。
そうそう、客員教授になってもらったパリのオノデラユキさんもやってきた。はじめてきちっと作品に対面したのだが、来てもらってよかった。写真という媒体がアートという哲学の道具としてうまく使われているところに感心した。スケールも大きい。物理的にも精神的にも。海外にいるというのはこういうことなのかとも思う。もちろん、レクチャーのあとは学生も一緒に歓迎会。属している学会の例会が2つあった。学会というのは研究者の業界である。研究動向を得ることが基本的な目標だが、会員の親睦ということが一番大きい。とくに日本は学会が発達している国で、学会が研究の基礎的な場になっている。だから世間の業界と同じで、おかしなところもあるが、権力的でさえなかったら楽しい場である。ドイツとアルジェリアの試合ほど、スリリングな発表はなかったが。
W杯が終わった週に韓国のホンイク大学の先生と学生が、精華の立体との合同展のためにやってきた。去年の9月にゴヤンでお世話になった先生たちである。ぼくは何もするわけではないが、一緒に宵々山の市中の居酒屋でまずは歓迎会。 歓迎会係?そうかもしれない。オノデラさんのときもそうだが、講演会やゲストとの付き合いは、本番の後も大切だ。ゲストたちと個別に話す機会があるし、そこでこそ話が深みを増すことも多い。と、これは飲むためのこじつけかもしれないとも思うが。韓国の先生と学生たちとも楽しくやっている。キム・ボムスさん(若い先生)が『監視者たち』の豪華なDVDセットを持ってきてくれた。日本でなかなか公開されないのでお願いしたのだ。ハン・ヒョジュが主演者のひとりで評判をとった映画。週末に繰り返し見よう。原稿もスピードがあがりそうだ。
W杯期間中は韓国ドラマや映画を見てなかったのだが、韓国からのゲストが来たこともあって、スイッチがそっちの方向に。そして、そして、ほんとに泣けた映画を借りて見た。『建築学概論』。タイトルがよかったので、もともと見ようかと思っていたのだが、DVDだけどほんとによかった。初恋というテーマ、それを大学の授業「建築学概論」と重ねる発想、シナリオの作り方(とくにディテール)、そして俳優たち、理論派の映画ファンには通俗的ということになるのかもしれないが、いい映画だった。去年、NHKでの『初恋』と同じ、いや、それより少し上。大学1回生時代の二人を演じるイ・ジェフンとスジが抜群。2012年の映画なので、こっちはだいぶ遅れた。スジはもう韓国の大アイドルらしい。大人役の男はオム・テウン。もともと好きな男優だ。建築学概論というタイトルも秀逸だ(英語のクレジットを見ると韓国では「アーキテクチャー」のようなので、日本語のタイトルは配給会社の宣伝担当か?このタイトルの方がずっといい)。
建築をテーマにした映画はいくつもあるが、これはトップクラス。「概論」というのが初恋の比喩になっているし、授業そのものが建築を都市(ソウルだが)から見ていくという内容であることも、ストーリーにふくらみをもたせている。もちろん、初恋がパターン化されているとする人もいるかもしれないが、初恋はパターンだのだ。だからこそ、繰り返される記憶映像となるのだ。ともかく、W杯の終わった週、『建築学概論』はブラジル時間から、ぼくを昭和の時間へと頭を切り替えさせたのだった。

2014年4月20日日曜日

ブログのロングヴァケーション

ブログを少しの間、中断することにした。理由はいろいろあるが、基本的には長い文章を書く時間がないのだ。じゃ、短いのをとも思うのだが、長いダラダラした文章を書くのも目的だったので、フェイスブックやツイッターのような短文と写真のメディアではね〜。ともかく、W杯の頃までは中断することにした。その頃には、予定している原稿も完成させ、リフレッシュな気持ちで、新しいタイプのブログをやろうと思っている。このFrench Libraryを読んでもらっている少数のアミーゴのみなさん、そんなわけで、また、6月頃に会いましょう。

2014年3月8日土曜日

ピーマン、ソチ、パリ

 ふとした機会(瞬間と言った方がいいが)に、これまで気づかなかったことに気づいたり、嗜好が変わったりということがある。誰にでもあることだが、今年に入って、そんなことが2つあった。ひとつは、「ぼくはピーマンが好きだ」とわかったことである。言葉で書くと、すごくつまらないことになってしまうが、冷蔵庫野菜室のピーマン2袋を見たとき、そうだったんだ!「ぼくはピーマンが好きなんだ」と妙に納得したのだった。長く生きてきて、ピーマンが好きだと思ったことはなかった。でもよく食べてはいた。生でも食べるし、酢豚に入っていないとがっかりするし、ピザにもトッピングする。何度も書いているシェーキーズではペパロニ(アメリカ産のサラミ)にピーマンのトッピングが一番の好物で、注文せずとも店員さんが入店と同時に窯に入れてくれる(この自慢話もこのブログに書いたはずだ)。他のピーマン料理はあまり食べないが、それでも野菜室にはいつもピーマンがあるのだ。ただ、ピーマンが好物だとは、一度も考えたことがなかった。この歳になって、どうしてこんなことに気づくことになったのか?わからないが、ピーマン好きだとわかったときには、ひどく幸せな気分だった。
もうひとつは、白いご飯が上手いと思うようになったことだ。実は、これまでご飯を美味しいと感じたことはあまりない。もちろん食べてはいし美味しいと思うこともあったのだろうが、普通はあるから食べているだけで、上手いともまずいとも思わなかった。海外に行ってもご飯が食べたいと思うことはあまりないし、漬け物類は好きだが、お茶漬けをする習慣もない。飲んで帰ってきて家内が「お茶漬けする?」と聞いてくれる風景は夢見るが、といって、実際にされても困るだろうなと、ドラマなんか見ていて思っていたのだった。それが今年に入ってから妙に白いご飯が美味しいと感じるようになって、よく食べる。といっても夕食は炭水化物系を控えているので昼飯でのことだが。特に自宅での場合、昼はご飯、というのが多くなった。少し大きめのお茶碗に盛り、そこに生卵(宅配してもらっている)、ネギ、そして萩市の井上商店の「しそわかめ」をたっぷり、加えて広島の三島食品の「カリカリ梅」を少々、そこに当然、醤油をかけて混ぜる。何故か山陽道の混ぜご飯になるのだが、それを豊橋の海苔でくるみ食べるのだ。うまい!こうして今年新しい味覚の嗜好が始まったのだ。歳はとってきたが、何であれ新しい事やものの発見は楽しい。
と、ここまで書いてきていったん中断、2週間後に再開。
2月から3月の始めは、学年末で忙しいし、ソチのオリンピックもあった。冬の五輪はそれほど関心はなく、キム・ヨナを見るだけにして原稿を頑張ろうと思っていたのだが、放送が始まるとつい見てしまった。夜型の人間なので、ヨーロッパのスポーツ中継は就寝前のちょっとしたくつろぎタイム。ウイスキーや焼酎をちびちびやりながらサッカーなんかを見るのだが、2月の2週間はオリンピックになってしまった。レベルの高い競技を見ているとやっぱり楽しいが、でも、終わるまで見てしまうので疲れたのだが。ぼくにとってソチでのベストは、キム・ヨナ(前回よりよくないがそれでも1年間大きな大会に出ていなくてあの演技、やっぱり女王だ)、次にオランダ勢のスピードスケート(身体の大きなアスリートのスピード感はすごい)、日本の選手で言えば葛西(ルサンチマンを結果に結びつけたしぶとさ。日本人離れしていた)、複合の渡部(その知的な物言いが新しいアスリートを感じさせた)。こうしてよく見たのだが、翌日のメディアの涙の人間ドラマ作りが過剰すぎて食傷。オリンピックが人生劇場になってしまう。加えて、国家ナショナリズム。それもオリンピックということか。やっぱり現在、スポーツの面白さを堪能するなら毎年のW杯だろうね。
そうそう、この2月3月は美術、美術な月間だった。そのなかでも祇園の何必館での「今村幸生」展は面白かったな〜。これまで知らなかった画家だったが、新聞の展評の写真を見て不思議な気持ちになり足を向けたのだった。そして・・・・。これはこれは。一見、ポップなイラスト風だがちょっと違う。今はやりのポップイラスト絵画は世界の表面の見取り図を差し出すのだが(もちろん面白い作品に限るが)、今村幸生のそれは、世界の表面の奥にのある層のようなものに触れようとしていると見えた。表面と奥を対照させているわけではない。そうした言い方しかできないのだが、地球の地層と同じように、世界は多くの歴史・文化の層からできていると考えているのだ。そこに価値の差異はない。今村が触れたのは、ぼくが大切だと思っている表面の下にある層なのである。そして、層はいつも同じところに留まっているわけではない。80歳になってこそ届く場所か?今村幸生を見た後は旧立誠小学校でウィリアム・ケントリジ。この南アフリカの作家の映像中心のインスタレーション。現代アートのひとつの地平を考えることになった。こういった作家が日本であまり出てこないのは何故かとか・・・
こんな2月だったのだが(このブログ、だんだん日常雑記になってきてしまった。どうしよう、つまらなくなっていきそうだ)、26日からは学生28人(プラス佐川さん)と一緒にパリ研修7日間。ピーマンも井上商店の「しそわかめ」もないが、パリが好きなので、どんなことでも何日でも行くのはうれしい。半正式研修(来年度から正式科目になるのでそのプレ)だったので講義もした。ルーヴル、オルセー、ポンピドー、パッサージュ巡り、そしてオベール=シュル=オワーズでゴッホと弟テオの墓参り、何十年か振りでサクレクールに登ったりと、足と腰が疲れたのだったが、学生たちのパリ初体験の感覚を見ていたらやっぱり来てよかったと感じもした。最後の晩餐は全員でクスクス屋。初めての学生にはパリのエスニックは、パリイメージを豊かにするはずだと思って企画したのだが・・・。何か「先生」である。
研修2日目にボザールの教授をしている川俣正さんのアトリエを訪問できたのも収穫。これは佐川さんのおかげ。川俣さんのことを知っている学生たちは驚きだったようだ。数年前、ボザールで川俣さんを遠目に見かけたのだが、そのときの印象とは違ってすごく「サンパ」(フランス語で感じがよくオープンなという意味)な人でこれにも感激。翌日はぼくを含めて3人で、川俣さんと佐川さんの同級生話を肴に、コート・デュ・ローヌを痛飲。このところ、パリではぼくはだいたいこの銘柄。「コート・デュ・ローヌがわかってこそワインがわかる!」と力説したレストランで隣にいたフランス人のアドバイスを実践しているのだ。この日のものはおいしかった。
もうひとり、オノデラユキさんとも会った。もう20年もパリにいるアーティストで、写真アートというのか、写真をベースに世界を新しく構成している人である。会うのは初めて。電話での感じから彼女も「サンパ」と思っていたが、その通りだった。パリに住む日本人で感じのいい人はそれほど多くはないと言うのがぼくの印象なのだが、短い間に2人もそうした人と会えたのは、すごく幸運なことである。来年度から芸術学部の客員教授で来てもらうので、打ち合わせを兼ねて、彼女のご近所のラオス料理屋に。ともかくうまかった!昔、ベルヴィルで食べたことがあったのだが、それに比べれば雲泥の差。どの国でもちゃんとすれば料理は美味しいのだということを再確認。
こうして3月半ばになったのである。3月半ばはぼくのものではないけど、月日も私に関係しないなら月日ではない。ブログの間隔が開いたのは、それだけ2月から3月が私的に濃密だったということだと、しておこう。完全時差ぼけの今朝は4時過ぎに起きてしまった。お腹がすいたので、パリから買ってきたピレネーの生ハムと目玉焼き、そしてピーマンとトマトで朝食。頭が何かに包まれている。これから大正イマジュリィ学会の全国大会があるというのに。それにしても今朝は寒かった。